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なぜ二人は出会わなければならなかったのか~新海誠『君の名は。』感想~

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 『秒速5センチメートル』では、二人の男女が最終的に出会うことはなかった。しかし、『君の名は。』では違う。二人は出会う。いや、出会わなければならなかったのだ。以下ではその理由を記す。当然ネタバレも含まれるのでご注意願いたい。

 まず、以下の感想を記す上での前提を示しておく。別に珍しいものではない。新海誠は、一貫して「運命の出会い」を描いているということだ。このことを念頭に置きながら進めていこう。

 『君の名は。』に対する「常識的な」反応として、「都合が良すぎる」というものがあるだろう。当然である。しかし、そこにとらわれると見失うものがある。とはいえ、その都合のよさを確認しながら進めていこう。

 「運命の出会い」の物語なのだから、二人は出会う。当然だろう。しかしかなり特異な仕方で。具体的には、男女が週に何度か入れ替わる。しかも後になってからわかるのだが、時間が3年ずれている。

 なぜ3年ずれている必要があったのか。それは宮水三葉(みつは)が住んでいる糸守町という飛騨の山奥にある田舎町は、立花瀧が高校三年生である時点の3年前に、隕石の落下により大きな被害を受け、三葉もそこで死んでしまっていたからだ。

 しかし、ある日当然二人の入れ替わりが終わる。三葉の世界(三年前)で隕石が落下し、三葉が死んでしまうからだ。こうして、三葉と連絡を取ることができなくなった瀧は、入れ替わりの時の記憶を頼りに、三葉が住む町を探しに行き、ようやく3年前に糸森町に隕石が落下して三葉が死んでいたことに気が付くのだ。

 さて、映画を観ていなくても、ここまでの流れから二人が出会うには、普通の手段ではどうにもならないことが予想できるだろう。しかし、繰り返すが二人は出会う。では、どうやって?それは、時間を超えてまた二人が入れ替わることによって、である。

 ここでいったん立ち止まろう。改めて文字に書き起こしていて、さっきまで感動していた自分が恥ずかしくなるほどの都合の良さだ。出会わせるためにわざわざSFにするなんて…*1

 しかし、これは「運命の出会い」の話だ。いや、それゆえに実はもっと都合のいいことがある。それは、都合が良すぎてもはや都合が良すぎるという突っ込みを入れる気力さえなくなり、なぜだがこちらがひたすらに心を打たれるような都合のよさだと思う。

 考えてもみてほしい。入れ替わった二人の男女は惹かれあう。それは、瀧が目的地もわからぬままに三葉が住む町を探しに行くことからも明らかだ。しかし、入れ替わったからといって二人が惹かれ合わなければならないわけではない。でも二人は惹かれ合う。しかも作中で二人とも相手のどこがいいとかいった類のつまらないことを一切言わない。この沈黙は、二人の出会いが「運命の出会い」であることをいっそう引き立ててはいないか。

 映画の筋を追う作業に戻ろう。瀧は隕石が落下する当日の三葉と入れ替わることに何やかんやで成功する*2。そして、何やかんやあって、体が入れ替わりが戻り、3年という歳月を超えて二人は2度目の出会いを果たす*3

 この出会いのシーンは非常に印象的だ。先ほど2度目の出会いだと書いたが、瀧はこのときまだ2度目ということに気付いていないから、初対面といっていい。なのに何なんだこの二人の恋人っぷりは。もちろん初々しさもあるにはあるが、とても初めて会った二人とは思えないようないい雰囲気。ますます「運命の出会い」であることは明らかだ。

 この出会いのあと、二人はそれぞれの世界に戻り、三葉は町の人を避難させて何とか隕石の落下による人的被害は最小限にとどめられることになる。当然、三葉も生き延びる。

 二人は、出会いを果たしたことも、互いの名も忘れる。そして、舞台は最後、隕石の落下から8年後へと移る。就活をしている瀧は、自分がかつて糸守町に並々ならぬ興味を抱いていたこと、そして、自分が常に何かをどうしようもなく探し求め続けていることを感じている。

 ここで注目したいのは、瀧の中にある強い想いが、一体何に向けられたものなのかが、その時点ではまだわからないということだ。つまり、まだ運命の出会いは果たされていないのだ。これこそが、『秒速5センチメートル』とは違って、二人が最終的に出会わなければならなかった理由ではないか。

 やはり二人は出会わなければならなかった。2つの電車が並走しているときにお互いが向こう側の電車の中に相手の姿を認め、駅を降りて街中で出会うという、これまた何とも都合のよいやり方であったとしても。そして、ここでようやく「運命の出会い」は果たされる。それまでのすべての都合のよい展開・仕掛けは、この出会いをお膳立てするものであったにすぎない。というか、この出会いがあったからこそ、それらを都合のよいものだと見なすことができるのだ。だからこうした都合のよさにいくら文句言ったところで、おそらくこの作品の核心を突くことはできない。この作品の、というか新海誠の作品の魅力は、「運命の出会い」が私たちの心をどうしようもなく揺さぶることにある。

 二人の男女が時間を超えて入れ替わる。非現実的だ。その通り。しかし、体が入れ替わることで、互いの容姿を知っていたり、入れ替わった時の相手のために残しておくという形で連絡取り合っていたりしたとはいえ、なぜそれだけで運命の相手たりうるのか。なんでそんなに都合よく運命の相手と出会えるんだ。なんて非現実的なんだろう。しかも繰り返すが、この二人が作中で互いの魅力を語る場面は一つもない。それなのに運命。これは純度100%の「運命の出会い」なのだ。

 当然こんなことは現実ではありえない。それは理想的なものでしかない。しかも、新海の作品における風景描写は、理想的な「運命の出会い」を引き立てる。彼の風景描写は、現実よりもはるかに美しい。その理想的な美しさは、あまりに理想的な「運命の出会い」を描くのにふさわしい。作中の様々な風景は、「運命の出会い」の道のりを回想しているからこそあれほどまでに美しいのかもしれない。

 もうこれくらいにしておこう。私がいくら文章を書いたところで、映画で描かれた「運命の出会い」が私にもたらした心の動きを再現することなどできやしない。風景描写も含めて、ぜひ実際に映画館で見てほしい。

 それにしても、新海誠はこれからも「運命の出会い」を描くのだろうか。個人的には、手を変え品を変えてずっと「運命の出会い」を描くのではないかと思う。いや、そうであってほしい。

*1:Wikipediaによると新海監督は、SF好きらしい。ただ、『君の名は。』のストーリーでSFとして目新しいものは別にない。とはいえ、そのことは恐らくこの作品にとって重要ではない。

*2:どうやって入れ替わるのかは重要ではないし面倒なので省略。

*3:これも面倒なので省略。あと、これが2度目の出会いだということは実はとても大切なのだが、気になる人は映画を見るなり、ネタバレサイト見るなりしてほしい。


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