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矢野利裕『ジャニーズと日本』についてのメモ、あるいはSMAPの特異性

 はじめに

 SMAPの解散発表があったからか、今月はSMAP関連の新書がいくつか出た。ここでは、その中で最も面白かった矢野利裕『ジャニーズと日本』を取り上げ、特に気になった部分について、いくらかコメントを加えていこうと思う。

 『ジャニーズと日本』の方針

 『ジャニーズと日本』の方針とは、ジャニーズの創始者であるジャニー喜多川の考えを踏まえて、ジャニーズの歴史を時系列順にたどるというものだ。それは非常に妥当なものであり、また至極当たり前の方針であるように思える。しかし、誰にでも思いつけそうなどと侮ってはならない。日本で生活していれば、それほど興味がなかったとしてもジャニーズ事務所に所属するアイドルを目にする機会は多く、漠然とではあれ彼らのことをわかっているような気になりかねないが、本書はそうした「わかったつもり」を明るみに出し、必ず新たな発見をもたらしてくれるはずだ。以下では、特に気になった部分を拾い上げていくことにしよう。

教育者としてのジャニー喜多川

 まず注目すべきなのは、著者が指摘しているジャニー喜多川の文化や価値観に対するスタンスである。彼は教育者である。このことは、彼がアメリカで生まれたということと密接に関係している。引用しておく。

ジャニーズの根底にあるのは、アメリカのさまざまな文化や価値観を「教える」という姿勢である。(26頁)

ジャニーによるエンタテイメントは、「日本人のアメリカ化」という文脈の中で捉えられなくてはならない。(30頁)

 こうした日本人の教育者たるジャニーの姿勢は、ジャニーズの楽曲における「攻めの姿勢」に繋がっているだろう。著者は次のように指摘している。

ジャニーズにおいては、基本的に聴き手におもねるようなことはしない。その点、例えば、AKB48のようなありかたとは異なる。AKB48においては、その表現がファンや聴き手のコミュニケーションとともにあることが、ファン層を増大させる大きな推進力になったりする。(223頁)

教育者であるジャニーは、聴き手におもねる必要などない。それは彼の役目ではない。そうではなく、アメリカの音楽を日本人たちに教えることこそが彼の役目なのである。それゆえ、ジャニーの視線は常に、アメリカからのものであると言える。こうした視線によって、80年代には面白い事態が生じることとなる 。

 こうしたアメリカからの視点が前提となる以上、日本は当然アメリカから見られた日本ということになる。このような「アメリカから日本に向けられた視線、すなわち、ジャパニズム」の精神が80年代に出現する。その出現を表しているグループこそ、シブがき隊であった(例えば、1986年の「スシ食いねェ!」を想起せよ)。そして、このジャパニズムの系譜は、光GENJI、忍者、関ジャニ∞へと続いていくと指摘されている(2015年の嵐のアルバム『Japonism』もこの系譜に連なる作品として挙げられていた)。

 以上のようなジャニーズにおけるジャパニズムがもたらす事態は非常に錯綜したものとなっている。著者は次のようにまとめている。

わたしたちは、そんなジャニーズにおけるジャパニズム表現を受け取ることで、アメリカの視点から「日本」を再発見することになる。ここには、西洋で評価された日本文化が日本国内で再評価されるような構造がある。ジャパニズム表現に喜ぶ背後には、捩れたかたちでのアメリカ礼賛が存在する。(146頁)

 当然再発見された「日本」には、何らかの間違いが含まれたいたりするものだが、こうして文脈を無視して継ぎ合わされてできる表現は、ジャニーズの強みにもなっていると著者は主張している。

 ジャニーズの魅惑的な表現は、そうした細かい間違いを超えたところにある。さまざまな要素を貪欲に取り込み、強引アウトプットしてしまう態度こそ、ジャニーズの魅惑的な表現を支えている。(148頁)

著者の指摘に特に付け加えることはないが、「さまざまな要素を貪欲に取り込」むという特徴は、現在の女性アイドルにもかなりあてはまるということは指摘しておこう。

 とはいえ、著者も指摘していることだが、80年代においてジャパニズムは、ジャニーズだけに見出されうるものではない。『ジャニーズと日本』においては、そうした例として郷ひろみの「2億4千万の瞳~エキゾチック・ジャパン」(1984年)が挙げられていた。ここでは、これに加えて、YMOを例として挙げておこう。彼らは、西洋の日本(あるいは東洋)に対するオリエンタリズム的なイメージをあえて利用したからだ(例えば彼らは、中国の人民服を思わせるような赤い衣装を着用していた)。

演技者としてのジャニーズアイドル

 他のトピックに移りたい。ジャニーにとってのアイドルとはいかなる存在か。ここからはそれが問題となる。著者は次のように述べる。

 ジャニーにとって、アイドルとして生きるとは、あくまで演技者として部隊の上で振る舞うこと。逆に言えば、求められる役割が貫徹できなくなったとき、彼らはジャニーズのアイドルではいられなくなる。(61頁)

こうしたアイドル観があることから、ジャニーズにおいてアイドルは「自我」を表現する存在ではないということにもなる。 さらに著者は、大和田俊之の『アメリカ音楽史』における指摘、すなわち、アメリカのポピュラー音楽は他者の〈擬装〉という欲望によって駆動されてきたという指摘を踏まえ、「アメリカ由来のジャニーズも、そのような〈擬装〉の文化の延長として考えるべき」であると主張している。

 非常に興味深い指摘であると言えるが、少し付け加えておく。確かに、ジャニーズのアイドルは非日常的な存在を〈擬装〉しているという点で、「〈擬装〉の文化の延長」であると言えるだろう。ただし、そもそも他者を〈擬装〉するという戦略自体を真似ているのであるから、ジャニーズのアイドルは、正確には〈擬装〉の〈擬装〉を行っているということになるだろう。これは些細な揚げ足取りに思えるかもしれないがそうではない。この構図においては、アメリカ音楽の「真正な」〈擬装〉があって、それをジャニーズのアイドルがさらに〈擬装〉するということになっており、アメリカの優位が揺らがないからだ。

 そもそも先ほど取り上げた教育者としてのジャニー喜多川という視点を踏まえれば、こうしたアメリカの優位が常にすでに前提されているということは、当然なのだろう。しかし、これを当然ですましておいていいのか。もちろんいいわけがない。戦後日本のポピュラー音楽の歴史は、このアメリカという「外」とどのように向き合うかという歴史であったとも言えるのだから(これについては、佐々木敦『ニッポンの音楽』を参照のこと)。

 しかし、ジャニーズには「自我」を露わにして振る舞うような奴らが、そして、そうした等身大の姿で成長していく過程が愛されてきた奴らがいるではないか。だから最後にSMAPの話をしておかなくてはならない。

SMAPの特異性

 先ほども確認したが、ジャニー喜多川にとってのアイドルは、「自我」を表現する存在ではない。しかし、テレビで、しかもバラエティー番組にその活路を見出したSMAPは、そうしたアイドルの定義からは逸脱している。著者も次のように述べる。

 SMAPは、ジャニー喜多川が目指すショーアップされたスター性から逸脱した存在だということができる。(160‐161頁) 

また、興味深いことに著者は、こうしたSMAPのありかたと2000年代以降の女性アイドルのありかたとの間に類似性を見出している。引用しておく。

 SMAPが一方で、モーニング娘。や、のちのAKB48のような、成長物語を提供する存在だったということは指摘しておきたい。(190頁) 

男性アイドルはジャニーズ事務所の寡占状態であるのに対して、女性アイドルのほうが多様性に富み、新たな試みは近年女性アイドルにおいてなされることの方が多いということはよく指摘されるし、事実でもあると思う*1。しかしながら、ジャニーズ事務所から、現在の多様な女性アイドルのシーンの先駆けとなるようなグループが輩出されたということは、いくら強調されても構わないだろう。無論、成長物語を消費することによるアイドルの楽しみ方は使い古されてきており、新たなアイドルの方向性が模索されていくべきではあるだろう。とはいえそれは現在の私たちが考えるべき課題であり、当然ながらSMAPの功績がそのことによって減ぜられるということは万が一にもありえない。

*1:当然ながら、このことから男性アイドルは女性アイドルに劣っているということは帰結しない


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