・・・・・・・・・(以下、ドッツ)は紛うことなき王道アイドルです。しかしそれは、いかなる意味においてのことでしょうか。
ドッツはよくへんなことをやります。コンセプト担当はインタヴューでいつも小難しいことを言ってます。しかしその一方で、特に何も考えなくとも、パフォーマンスを楽しむことはできます。ノイズだけでなく親しみやすい楽曲もあります。かくて、ドッツは王道アイドルでもある…。
今、王道アイドル「でも」あると言いました。しかし冒頭では「紛うことなき」王道アイドルと言いました。王道アイドルでしかないということです。ここから書きたいのは後者の意味での王道アイドルについてです。もちろん前者のような意味合いもあるとは思いますが、それだけでは取りこぼしてしまうものもあります。では、ドッツが王道アイドルでしかないというのは、いかなる意味においてでしょうか。
ここで、最近のアイドル史を振り返っておきましょう。なんと言ってもターニングポイントとなったのはAKB48でしょう。近頃はAKBの「凋落」が語られることもしばしばですが、私はAKBの時代は未だに過ぎ去ることなく続いていると考えます。たとえ明日AKB48というグループが消滅したとしてもやはりAKBの時代は終わらないとすら言えます。なぜでしょうか。
AKBが新しかったのは言うまでもなく「会いに行ける」ことでした。ライブだけでなく握手会等の接触イベントが重要となり、それに伴い現場が非常に重要なものとなりました。
しかし。AKBの人気が拡大するにつれ、それ以前のように会いに行くことは不可能になっていきました。これに呼応して、一時ももクロが会えることを強調したりもしましたが、しばらくしてももクロに会いに行くことも難しくなっていきました。
こうしてAKBなどによってかつてのようには満たされなくなってしまったアイドルオタクたちの会いに行きたいという願望を別の形で満たすかのように、地下アイドルの時代が到来しました。現場における接触(握手、レスをもらうなど)を重視するシステムはAKBそのままに。しかしその規模はAKBとは比べ物にならないほど小さく。様々なアイドルたちが地下で蠢き合う状況が生まれました。
こうして、数えきれぬほどのアイドルが生まれ、それだけでなくアイドルシーンは活況を呈しました。「アイドル戦国時代」なる言葉が流通したのは少し前の懐かしい思い出です。もちろん本当に戦国時代だったのか、あるいはこの言葉は一体どういう事態を指し示すものであるかについてなどの議論はありますが、いずれにせよこうした言葉がどんな形であれ流通するほどには、当時のアイドルシーンが盛り上がっていたということでしょう。
しかし何年か前からだったでしょうか、アイドルシーンの停滞が語られるようになってきました。それと同時に、欅坂46のブレイクを受けて、「メジャー回帰」なる言葉が生まれたりもしました。タコツボ化した地下アイドルの各々の現場で疲弊したオタクたちが、欅坂46という大規模なグループへと流れていったという筋書きです。この言葉も「アイドル戦国時代」と同様に、本当にそんなことが起きたのかと疑念を差し挟むことは可能です。しかしこうした筋書きを一定数の人が受け入れる程度には、地下アイドルシーンの停滞や疲弊があったことは動かせないでしょう。
アイドル史の振り返りが長くなりましたが、そろそろ王道アイドルという話に近づいて行きましょう。ここまでの話を踏まえて考えておきたいのは、現場中心主義とも言えるAKB由来のシステムです。今見たようにこれはオタクの疲弊を一部でもたらしました。さらに言えば、このシステムは現場での体験が頂点におかれ、いわゆる「在宅」的楽しみかたは程度の低いものになります。こうした状況においては、アイドルを楽しむことのできる人間は限られてしまいます。割と元気でないと現場には通えないし、時間とお金の余裕もある程度必要になります。今やアイドルがみんなのものであると正面切って言うのはかなり難しくなっています。
ようやく冒頭の話に戻ってきましたが、ドッツが王道アイドルであるというのは、みんなのものであるということに他なりません。かつての「国民的」アイドル(AKBのことではありません。松田聖子とかそういう人を念頭に置いてください)と同じように。
しかし、これは時代錯誤な試みではないかという反論が出るでしょう。その通りです。かつての王道アイドルは、テレビというメディアを介してみんなのものとなっていました。しかし、現在の私たちを取り巻いているメディア環境はその頃とは大きく変化しています。もういくら正攻法で人気が出ていっても、国民的アイドルたることは不可能です。AKBが国民的アイドルと呼ばれる度に浴びせられていたアイドルオタク以外からの罵詈雑言を考えてみればわかるでしょう。
アイドルはみんなのものではなくなってしまった。だから、もう一度アイドルをみんなのものにしたい。しかし、かつてとは状況が一変している。こうしたジレンマを踏まえたとき、ようやくドッツ運営の「都市計画としてのアイドル」という目論見を理解することができます。
人気出してどんなにテレビに出たって、みんなのものであるアイドル=王道アイドルにはもうなれやしません。人気が出ればその分だけアンチが生まれるだけです。かつてとは違う形でアイドルをみんなのものにしよう。じゃあ、アイドルを都市にしてしまえばいい。都市は誰のものでしょうか。例えば東京は私のものだなどと言う人がいるでしょうか。都市はそこに住むみんなのものです。そして私たちの日常を取り囲んでいるもの。今やそんな日常がアイドルで満たされていく。円形のものを見つけるとついついあの子を思い出す。そんな調子だから今まで気にもとめなかった無機質な都市での様々な場面が、今までとは全く違った相貌で現れてくる。何でもない都市の風景が、経験が、人々が、今では少し愛おしいとさえ思える。穏やかな気持ちになる。電車の中でささいなことにいらいらするのはもうやめる。都市はあの子達で満ち溢れているから。
以上でドッツが王道アイドルであることの意味は明らかでしょう。もちろんこうしたことを踏まえないとドッツが楽しめないわけでは一切ありません。ただ、ドッツが既存の多くのアイドルにおいて前提となっていることを切り崩し、全く別にのほうへ歩みだそうとしていることは強調しておいていいでしょう。そしてこの歩みを止めないように。まずは明日のワンマンで。