・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)は基本的に毎月一回定期公演を開催している。12月は「Tokyo in Words and Letters」が開催された。そして2月には「Tokyo in 『 』」が開催される。言葉と文字あるいは手紙(まとめて以下では記号と呼ぶ)、そして空白。両者は表裏一体であって、そのことはこれら二つの定期公演の間=1月に発売されたドッツのファーストアルバム「 」のジャケットにおいて、視覚的に表現されている。そんなことを以下に書き残しておきたい。
ひとはアイドルについてやたらと何かを語る。書きたくなる。それは音楽のことかもしれないし、メンバーの容姿や性格のことかもしれないし、グループの物語についてかもしれない。もちろん私たちは東京そのものでもあるドッツについて、やはり何かを書くだろう。書こうとするだろう。記号における東京(Tokyo in Words and Letters)。
ひとはアイドルにかんするあれこれには、記号による表現を使うだけでは尽くせない何か=空白が、あると考えている。ライブの熱量、あの子の尊さ、ライブ後の語らいの高揚感。このことは、言葉を紡ぐためだけの運営=コンセプト担当がいるドッツであっても、当然当てはまることだ。空白における東京(Tokyo in 「 」)。
こうした二つの側面は、どうしても相容れないもののようにおもえる。でも本当にそうなのか。
「 」のジャケットを見て頂きたい(見れないよって人はまず買おう!)。9本の線が、縦に走っているのが見て取れる。なぜ9本か。それはグループ名の・の数に合わせているからだろう。ということは、これらの線は・ちゃんだということになる。しかもこの線はただの線ではなく空白だ。空白のなかに・ちゃんがいる。というかそこでは、・ちゃんは空白として現れている。空白における東京。
しかし、空白はそれだけでは空白として認識されない。それを空白として浮き立たせる何かが必要だ。アルバムのタイトルにおいて、空白をそれとして浮き立たせているのは「」だ。この括弧は、私たちが・ちゃんを観測するというその作用を表しているのだと考えよう。ここで大事なのは、そもそも観測する気にさせる何かが、空白が、あったからこそ観測は行われたのだということ、しかし他方では、観測によってこそその空白は認識されるに至ったのだということ、これらのことである。空白と観測は不可分のものなのだ。
再びアルバムのジャケットに戻ろう。そこで空白はたちは、東京についての様々な言葉に囲まれることで浮かび上がってきている。このことは次のように解釈できる。①記号による表現では決して尽くせないアルバムの楽曲たち。でもそれはやはり記号によって浮かび上がる(収録されてる曲が9曲だったなら…)。②東京については実に様々なことが語られるし書かれてきた。でもそこには記号で尽くせないようなノイズもまた存在していて、でもやはりそうしたノイズは記号によってこそ浮かび上がる。等々。
なんだか空白にいろんな意味が読み込めてしまうが、空白である以上それは当然だろう。少なくともここで確認してみたかったのは、空白と観測、特に記号を介した観測、これらが入り組み合っていて互いを切り離すことができないということだった。だから12月の定期公演は2月の定期公演によってより完成されるし、その逆もまた真なのだ。
また、以上の短い文章からでもさらにいろんな展開が生まれてきそうだ。例えば、ノイズとしての・ちゃん、もっと言えば都市のノイズに対するノイズとしての・ちゃんというインタビューで語られていたテーマにかんして。あるいは、現場の純粋な体験に記号というまがいものがすでに混ざりこんできているということにかんして。このことは、「現前の形而上学」としての現場(=現前する場所!)中心主義にたいするデリダ的応答の仕方を示唆しているだろう。話が散らかってきた。どうやらこの文章によってもまだ見ぬ広大な空白が浮かび上がってきたらしい。