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今こそ『前田敦子はキリストを超えた』を読み直す

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 先日、批評家で、アイドルグループPIPの元総合プロデューサーの濱野智史が、ニコ生で「濱野智史の告解と懺悔」と題された放送を行った。これはPIPの解散を発表するものであると共に、その試みが失敗であったことを、プロデューサー自身が認めるというものでもあった。また濱野は、今後アイドルには関わらないということも明言していた。

 この話を取り上げたのは、PIPに失敗について何かを述べるためということではもちろんない。そうではなく、濱野が、今回扱う『前田敦子はキリストを超えた』の著者であるからだ。彼がアイドルに関わらないと明言した以上、アイドルについて論じた文章がが今後世に出る可能性は低い。少なくとも当分の間は無いと考えてよいだろう。だからこそ、今こそ『前田敦子はキリストを超えた』を読み直す必要が生じる。著者自らがアイドルについての言及をしなくなる可能性が高い以上、他の者がそれを引き受けて議論を展開させていく他あるまい。今回の記事はその一つの試みあるいは試み以前の準備作業となる。

 とはいえこの著作が出版されたのは、2012年。今から5年も前の話であり、そこからAKBの状況だけでなく、アイドルシーン全体の状況も当然変化した。それにもかかわらず、この著作を少しだけ見ていけば、そこで述べられていることが現在のアイドルシーンにもそのまま当てはまっていることに気付くだろう。今現在、アイドル全体の閉塞感について語られることが少なくないが、これはある意味で当然のことなのかもしれない。ともあれ、私たちは『前田敦子はキリストを超えた』におけるAKBのシステムに関する記述が現在のアイドルにも依然として当てはまることを確認した上で、それを乗り越えていくような方策を練る必要が恐らくある。しかし、こうした新たな動きはすでに存在していると考えられる。この新たな動きについても言及することになるだろう。

 ここからは、いよいよ『前田敦子はキリストを超えた』の内容を実際に見ていこう。まずこの著作において述べられているAKBの分析を乱暴に要約するならば、以下の二点に集約される。すなわち、①近接性②偶然性である。ここでは②についてはあまり扱わず、①に集中して議論を進める。

 では、近接性とは何か。それは「現場」における「いま・ここ」という一回性の体験のことであると要約できる。それはライブあるいはそこにおける「レス」であり、あるいは握手会における「接触」である。現場の「偶然性」に身を晒すということについて述べる次の部分から、こうした現場の特権性がうかがえる。

それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身をゆだねて、推しメンに導かれて、「誰かのために 」生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返るといった、普通の人間であれば当たり前にもっている「時間」の感覚を無化することである。ただ目にある「いま・ここ」を全力で生きるということ。これである。(167頁)

 AKB劇場では抽選によって座る座席が左右される。偶然性が入りこむのだ。そして偶然性が付きまとう中で決まった自分の座席から、「いま・ここ」の現場を楽しむ。この「いま・ここ」は過去から未来へと推移していく通常の時間から離れた特異なものとして現出している。そして、そうした現場での楽しみは、やはり推しを応援することにあるのだが、現場での推し変はレスによってこそ決まると自身の体験に基づいて濱野は述べる。

私は、ステージの中心から目を外して、上手にいたぱるるをずっと見ていた。その瞬間、目線が合ったのである。あの瞬間は忘れられない。ぱるるは、すぐに目線を外そうとした。自分も恥ずかしいので目線を思わず外そうとしてしまう。でも、また目線を向ける。その数秒後、また合ったような気がする瞬間が来る……。(132頁)

どこに惹かれたかなんて、わからない。ただ目線が合った瞬間、稲妻に打たれたとしかいいようがない。(134頁)

以上から、現場においてレスあるいは握手を介して繋がるということが重要視されていることがわかる。またそうした繋がりこそが現場の特権性を支えているものであることもわかる。AKBのシステムに見出すことができるこうした現場を重視する思想をここでは仮に「現場中心主義」と名付けておこう。こうした要約が非常に一面的であることは重々承知の上で、『前田敦子はキリストを超えた』の最大の功績は、AKBの特徴としてこの現場中心主義を取り出してきたことにある、とあえて言っておこう。

 ではこの現場中心主義を踏まえて、現在のアイドルシーンを見渡してみればどうか。現場中心主義はますます強化されていると言えるだろう。ただし、その担い手として地下アイドルが付け加わるという形で。つまり、AKBがその規模の拡大に伴ってますます「会いに行く」ことができなくなるのに比例して、そのオルタナティブとして地下アイドルの現場およびそこでの繋がりが機能した。こうしてますますタコツボ化し各々に閉じこもる数えきれぬほど多くの現場で、オタクがそして何よりアイドルたちが、毎回の現場で束の間だけ現出する「いま・ここ」の時間感覚を無化させるような瞬間を追い求めた結果、タコツボ内の温度上昇によって疲弊し、消耗し、オタク・アイドル共々に熱死へと至る。オタクは「他界」し、アイドルは「卒業」する。あるいは毎日のように流れ、もはや私たちをかつてほどには驚かせなくなったようにさえ思える「大切なお知らせ」。

 とはいえこうした現場中心主義に抗うような動きはないのか。もちろんある。それこそが、このブログでもすでに二度取り上げたアイドルグループ「ドッツ」(正確には「・・・・・・・・・」だが、以下では仮にこのように呼んでおく)である。いくら強調しても足りないことだが、このグループはとにかく他と少し違うおかしなことだけをやっているだけのグループであるだけでは断じてない。その裏には確かな思想がある。もちろんその全貌を明らかにすることなど到底できないが、以下ではその一端を明らかにしておきたい。

 ドッツは明らかに現場中心主義に抗っている。少なくともそのように解釈できる。しかし、単純な戦略では問題が生じる。現場はオタクに対してだけでなく、アイドルに対しても重要な機能を担っているからだ。再び『前田敦子はキリストを超えた』参照しておこう。そこでは、現場の接触=握手会でのオタクとのやり取りによって、アイドルがアンチからの誹謗中傷を耐えうるものにすることができているとされる。引用しておく。

 AKBのメンバーたちがネット上での匿名のアンチに耐えられるのは、リアルの現場でのヲタからの承認の声を存分に浴びているからだ。それがなければ、アンチに耐えるなどということは到底不可能である。(79頁) 

このように現場は、こうしたアンチからの批判を耐えうるものにする承認の場とみなされることで、それを重視することが補強されている。

 しかし、ドッツが現場中心主義を解体しても、こうしたアンチの誹謗中傷からメンバーを守ることは可能だ。どういうことか。ドッツのメンバーの一人に対して悪口をネット上に書き込む場合を考えてみよう*1。ここで直ちに問題が生じる。というのも、ドッツのメンバーの名前は全員・であるからだ。批判しようにもどの・ちゃんなのか見分けがつかない。では顔を見てやろうとなるわけだが、しかし全員が目を隠すためにサングラスをしている。それゆえ、個人攻撃を行うためには、すべての・ちゃんたちを、顔というわかりやすい手掛かりなしでしっかりと識別できる必要があろう。こんな識別ができるようになっているとき、あなたは立派なドッツヲタと名乗るにふさわしい人物になっていることだろう。

 とはいえ、詳しいからといって誹謗中傷を行わないとは限らない。あるグループのオタクであることから、すべてのメンバーに対して良好な感情を持っているということは帰結しない。しかし、である。・という名前は各々のメンバーに一対一で対応していない。というかさせようがない。だからいくら精密な個人攻撃を行っても、言葉の上ではすべて等しく特定しようのない・ちゃんに対する攻撃でしかない。これは固有名を用いた個人攻撃がもたらす心理的負担よりは、幾分負担が少なくて済むだろう。

 さらに付け加えておけば、この名前は好意的な反応がなされた時には逆の効果をもたらしうる。すなわち、ある一人の・ちゃんに対する称賛があったとして、それをすべての・ちゃんが自分に対する称賛として解釈しうるのである。要するに、・という名前が誰を指しているのかを決めることができないという特性によって、一人に対する誹謗中傷は全員に分散されることで緩和されうるし、逆に一人に対する称賛は全員が自分に向けられたものだと感じることができる。少なくとも、各々の・ちゃんはそのように解釈することができる。

 以上から、ドッツのメンバーは現場を重視しなくともアンチから耐えることが可能であることを示すことができたように思う。それゆえ最後に、ドッツがいかにして現場中心主義の解体を目論んでいる(ように解釈できる)のかを、駆け足で確認していくことにしたい。具体的には、『前田敦子はキリストを超えた』においては、現場についての記述がなされる際、ライブと接触イベント=握手会が挙げられていたので、ここでもこの二つについて順に確認していく。

 まずはライブ。濱野はぱるるとのレスのやり取りによって推し変を決意した場面を、印象的な筆致で描いていたが、ドッツのライブではそうはいかない。・ちゃんたちは目を隠すためのサングラスをかけている。ゆえにレスのやり取りは成立しない。ドッツのライブにおいては、現場での繋がりにサングラスを介した切断が差し込まれている。それだけではない。「のいずくみきょく」という楽曲がある。曲が流れている間のメンバーのパフォーマンスはその都度異なっているそうなのだが、曲中ずっとノイズが流れることだけは変わらない。この曲が流れると、私たち観客は・ちゃんたちからレスをもらうことはおろか、心理的な繋がり=感情移入も途絶え、ただノイズに圧倒され、突然我に返らされるような、そんな切断を体験することになる。要するに、ドッツの現場では繋がりは切断される。しかしこれだけのことであれば、現場中心主義を覆しているとは言い切れないだろう。この先のことを考えるには、ドッツのライブが「観測」と呼ばれていること、そして「HeartSync」というアプリ、この二つを考慮に入れておく必要がある。

 まずライブが観測であるということは何事なのか。このことを理解するには、ドッツのさらなる隠された設定を知っておく必要がある*2。驚くべきことであるが、ドッツのメンバーたち、すなわち・ちゃんたちの本体は生身の人間ではない。・ちゃんと名付けられて女の子がサングラスをかけているのではない。そうではなく、・ちゃんとはそのサングラスのことであって、そこを通りかかった女の子にサングラスがかかって、ようやくライブが観測されることになるのだ。

 あるいはこう言ってもよい。まず・ちゃんという抽象的なものがある(ライブではサングラスとなっている)。次いで、・ちゃんを象徴するものとしての女の子やCDがあるのだ。この順序を間違えてはならない。かくして、現場中心主義は解体される。現場が「いつでも・どこでも」観測されるという仕方で。つまり、抽象的な・ちゃんを象徴する出来事があれば、そのときもうドッツの現場はそこで観測されているのだ。

 次に「HeartSync」というアプリだが、これはメンバーのリアルタイムの鼓動を見れるようになっている。またその鼓動に応じてスマホを振動させることもできる。このメンバーの鼓動を感じるために、ライブ会場に居合わせる必要は全くない。視覚を通した体験であれば、どうしてもライブ会場という現場に居合わせた者が優位であることは覆せないが、振動であれば視覚を介することなくダイレクトに・ちゃんの存在感を転送することができる。そのとき振動によって象徴された・ちゃんが観測されている。

 まとめておこう。ドッツの現場は、普通考えられているそれとは違う。一般的な意味での現場は、日常のあらゆる場面において様々に観測されうる複数的な現場の中の一つでしかない。今や従来的な現場の優位は揺らいでいる。少なくともその優位性は多少なりとも減ぜられたと言うことはできるはずだ。

 以上から、AKBのブームがある程度収まり、著者がアイドル運営に失敗したからといって、『前田敦子はキリストを超えた』という本が読み直される必要がないということにはならない、ということはもはや明らかだろう。むしろ地下アイドルにおいてAKBに見出された現場中心主義がより強固なものとなっている今こそ、『前田敦子はキリストを超えた』を読み直すべきではないか。そして、その読み直しによって得た現状認識から一歩踏み出すために、今回はドッツの取り組みの一部について紹介した。運営陣たちの壮大な目論見のうちのほんの一部とはいえ、どれほど正確にそれを把握することができているのかは心許ないが、なぜか最後まで読んで頂けた方がこのグループに興味を持つきっかけになれば、これほど喜ばしいことはない。興味を持たれた方には、「dots.tokyo」で検索することをおすすめしておく。

*1:ここではグループ全体に対する誹謗中傷は考察の対象としない。それは、特定の一人のメンバーに向けられたものではないが故に、個々人の心理的負担は個人攻撃に比してはるかに少ないように思われるからだ。

*2:以下の記述は、2017年2月4日に行われたアイドルプロデュース論講義におけるドッツ運営陣によるプレゼンに基づいている。


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