以下で示すのは、ドッツ運営が振付師のかたに送った文章「東京マヌカン 歌詞解釈とカバーコンセプトについて」についてのみの要約になります。今回のコンセプト担当の記事は、おおよそこの文章の内容に尽きます。
・君(初音ミク)と僕
初音ミクは虚構のキャラクターであり、反応が返ってこない。だから救われる。なぜなら、僕がミクに対して何をしても無反応であることによって存在を受け入れてくれるから。ただ同時に僕は、ミクが人間になって、人間の世界でミクに肯定されながら生きていたいとも思っている。
しかし、僕は初めから自分が「人間になりきれなかった」ような気持ち悪いものだと知ってしまっている。ゆえに、「君が生きてなくてよかった」。ここで、僕もミクも共に人間ではない。しかし両者の意味合いは異なる。
僕が「人間になりきれなかった」というのは、あくまで比喩。僕=人間ではないもののような人間。ミクは比喩ではなく人間でないイメージでしかない。ミク=人間のような人間でないもの。以上を前提とした上で、「東京マヌカン」のカバーについて説明がされていく。
地下アイドルは生きていて、反応もしてくれる(3次元性)が、同時に完全には思い通りにならない面(2次元性)もある。ゆえに、地下アイドル=2.5次元。また初音ミクも、言うまでもなく2次元の存在でありながら、本当に生きているようなリアリティ(3次元性)も与える。ゆえに、初音ミク=2.5次元。
とはいえやはり両者は異なる。「東京マヌカン」では初音ミクの2次元性(=生きていない)に着目して歌詞が書かれているのに対し、地下アイドルはレスや接触による3次元性が強調される。つまり、本来「東京マヌカン」と地下アイドルとは相性が悪い。ではなぜカバーするのか。
・なぜカバーするのか
初音ミク的な2次元的存在(生でないもの、マネキン)の素晴らしさを、3次元(生、パフォーマンスで伝えたい。これがカバーをした一つ目の理由。
もう一つの文脈として、ニコニコ動画の「歌ってみた」「踊ってみた」文化がある。これを踏まえ、「初音ミク」「歌ってみた」「踊ってみた」という「アイドルのようなものではあるが、アイドルそのものとは見なされないもの」をアイドルの表現の中で用いることで、「そのどれでもないもの」としてアイドルを浮かび上がらせたい。これが二つ目の理由。
ゆえに、メンバーが声を出すAメロ部は「歌ってみた」を、歌わず踊るだけのラスサビは「踊ってみた」を、連想させている。そして、1・2番のメロでは、メンバーが声を失い、動きを止める様子が表現される。これによって、ボカロP自身が声を持たないことを表現し直している(これは「歌ってみた」では表現できない!ゆえに、この表現をすることはカバーにふさわしい)。つまり、①メンバーが初音ミクというマネキンの歌すら歌えないようなマネキンでしかないことが表現される。しかし同時に、②メンバーがマネキン化することができる人間であることも表現されている(マネキンは自分でマネキンになれない)。
さらに、ラスサビでの・ちゃんは踊るマネキンになる。つまり、Bメロのマネキン化とラスサビで笑顔に重ねられる「君が生きてなくてよかった」という歌詞によって、たとえメンバー本人が楽しいと感じていても、ファンはそれ素直に受け取ることができない。ここに、「初音ミク」=歌うマネキンでも、「歌ってみた」=歌う人間でも、「踊ってみた」=踊る人間でもない、踊るマネキンとしてのアイドルが立ち上がってほしい。
・以上をファンの側から見ると…
「東京マヌカン」のパフォーマンスは、ファンのすぐ近くで、地下アイドルには「初音ミク程度」の近さしかないことを示している(=「近いのにある距離」あるいは「近いからこそある距離」)。そして、「だからこそいい」とファンが思っているということも。こうして、遠くにいるテレビアイドルと、それに対抗して近さをたたえるこれまでのアイドルの両者を、相対化することができる。