『観光客の哲学』の第1部はこちらからどうぞ。
第2部 家族の哲学(序論)
第5章 家族
1、なぜ家族について考えるのか
・これまであったアイデンティティ
①個人→資本主義(グローバリズム)
③階級→共産主義
⇒かつては、共産主義が個人と国家を同時に批判していたが、いまや共産主義は力を失った。だから、新たに個人と国家を同時に批判するための足場(=アイデンティティ)をつくる必要がある。
⇒観光客が拠りどころにすべき、第四のアイデンティティとは、家族である。
・私たちのなかにいまだある「家族的なもの」への執着を利用して、どのようにして新しい連帯をつくれるのかを考えることが、家族の哲学の課題。
2、家族の三つの特徴
・郵便的マルチチュードは、新しい家族的連帯に支えなければならない。
・家族という概念の注目すべき点
①強制性…家族には合理的判断を超えた強制力がある。
⇒人は家族のために死ぬことがありうる。ゆえに、新しい政治の基礎になりうる。
②偶然性…ある親からある子どもが生まれることは、偶然。家族は偶然性に支えられている。
⇒「人はだれもがひとりきりでは生まれることができない」を出発点にした、新たな実存哲学へ(ハイデガーの「死」の哲学とは対照的に)。
③拡張性…家族は偶然の存在なので、血縁以外の要素によって拡張することができる。
・「人格のない新生児への愛→子どもに人格が生まれる」というように、初めから種の壁を越えた憐れみ=誤配があって(人格のない子どもを愛せるということは、人格のない他の種の生き物をも愛せるということだから)、それゆえに家族をつくることができる。
☆家族はそれのために死ぬことができるようなものなので、政治の基礎になりうるが、同時に偶然性に支えられているものでもあるので、その範囲を拡張することができる。
第6章 不気味なもの
1、サイバースペースという言葉はなぜ生まれたか
・東は情報社会をサイバースペースという比喩で捉えることを批判した。では、この言葉はいかにして生まれたのか。
・1980年代になると、SFにおいて、宇宙や未来を描くだけでは、人々の想像力を刺激すること(=異化)ができなくなった。
⇒選択肢①:それでも宇宙や未来にこだわる(例:『スターウォーズ』)
選択肢②:新たな文学的フロンティアを探す(例:ギブスン)
⇒②を選んだ人たちが、宇宙でも未来でもない新たな場所として考え出したのが、サイバースペースだった(この時この言葉は文学的比喩に過ぎなかった)。
・サイバースペースという言葉は、ギブスンの『ニューロマンサー』(1984年)を出版してから十年ほどで、情報産業の未来とアメリカの歴史を重ねるための政治的な言葉に変わっていった(サイバースペース=新たなフロンティア)。
2、サイバースペースから不気味なものへ
・ギブスン…現実とサイバースペースが区別された世界を描いた。
ディック…現実とサイバースペースの境界が曖昧になるという経験を、現代社会の本質と捉えた。
⇒東は、ディックの読解こそが、新たな情報社会論の基礎になるはずだと考える。
・ツイッターを使っていると、次第に本アカと裏アカの区別がつかなくなる。裏アカでつぶやいた毒が、「不気味なもの」として、本アカのほうにも影響を与えていく。このことはディックの考えの正しさを示しているのではないか。
3、ポストモダンの新たな主体
・ラカンの主体の理論
①想像的同一化…目で見ることのできるイメージへの同一化(両親や教師をまねること)。
②象徴的同一化…世界を成り立たせている秩序への同一化(両親や教師のふるまいのメカニズムを理解すること)。
・サイバースペースの概念が生まれたのは、ポストモダンの時代。この時代は、「大きな物語」(SFにおける宇宙や未来を信じる夢)の喪失によって定義されるが、これはラカンの理論においては、世界を成り立たせている秩序(象徴界)がうまく機能しなくなることを意味している。つまり象徴的同一化がうまくできなくなる。
・では、こうした時代においていかに二重の同一化を確保し、主体を成立させるのか。
⇒これに東は、宛先の二重化で答えた。つまり、ポストモダンの世界では想像的同一化の対象(イメージ)と象徴的同一化の対象(シンボル)が等価に並び立ち、主体はその二つに同時に同一化する。その結果、あるときイメージに同一化していても、つねにシンボルへの同一化から介入が来るというような葛藤が生じる(東はこの理論を254頁の図4の説明にも用いている)。
☆ラカンは、主体が主体であるにはまず想像的同一化をし、次いで象徴的同一化をすることが必要だと考えたが、ポストモダンの時代になって、象徴的同一化がうまくいかなくなった。そこで東は、主体が、等しく並べられた想像的同一化の対象と象徴的同一化の対象に同時に関わるようなモデルを考えた。
第7章 ドストエフスキーの最後の主体
1、なぜドストエフスキーなのか
・ドストエフスキーは、信仰や正義が失われた時代に、ひとがテロリストにならないためにはどうすればいいかを考えていた。
⇒第7章では、ドストエフスキーの作品をたどることで、観光客=郵便的マルチチュードが、テロリストにならない方法について考えていく。
2、地下室人の論理
・『地下室の手記』の地下室人は、新しい技術や消費社会こそが理想社会につながるというユートピア論を批判している。
⇒現代では、情報技術の発展で働かなくて済む社会が訪れるといったことが言われる一方で、世界中に同じようなショッピングモールが建ち観光客が行き交うという、動物的ユートピアが出現しているが、地下室人ならばこれらを共に拒否するだろう。
3、『悪霊』における第三の主体
・地下室人は、ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽=正しいことをすることのエロテックな歓びに気付いているので、それに巻き込まれない権利を主張する。
⇒世界がどれほどユートピアに近づいても、そのユートピアがどれほど完全でも、ユートピアがユートピアである限り、その全体を拒否するテロリスト(=地下室人)は生まれる。これが今の世界が直面している問題に他ならない。
・ドストエフスキーは『悪霊』において第三の主体にたどり着いた。
①第一の主体…社会を変えたいと願う人間(社会主義者)。
②第二の主体…社会を変えるのは偽善だとののしる人間(地下室人)。
③第三の主体…社会なんか変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやればいいとうそぶく人間(スタヴローギン)。
4・5、最後の主体=不能の父
・ドストエフスキーはスタヴローギンを肯定したわけではなく、むしろ彼の無関心病からの解放の必要性こそを訴えた(⇒最後の主体へ)。
・『カラマーゾフの兄弟』では、アリョーシャが主人公だとされていて、彼が最後の主体ではないかと推測されるのだが、『カラマーゾフ』第一巻においては、アリョーシャの役割は漠然としている。
⇒書かれなかった第二巻を空想する必要がある。
・第二巻でアリョーシャは、コーリャ(第三の主体)たち=息子たちに囲まれて、家族的な共同体を形成するのではないか。
⇒しかしアリョーシャは、コーリャを救うことのできない、不能の父でしかない。
⇒しかしこの不能性こそが、イワン=コーリャ(第三の主体)の乗り越えを可能にする。
・リベラリズムの偽善(第一の主体)を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠(第二の主体)を逃れたあと、グローバリズムのニヒリズム(第三の主体)から身を引きはがし、子どもたちに囲まれた不能の主体(最後の主体)=観光客の主体に到達する。
・この不能の主体は世界を変えることを諦めるわけではない。
⇒イリューシャの葬儀の場面でコーリャがカラマーゾフ万歳と叫んだことは次のことを示唆する。すなわち、ある子どもは偶然で生まれ、偶然で死ぬ。そしてまた新しい子どもが偶然で生まれ、必然の存在へと変わっていく(⇒第5章の2)。イリューシャの死はそのような運動で乗り越えられる。そしてこの運動はふつう、家族と呼ばれている。
⇒不能の主体は不能だが無力ではない。運命を子どもたちに委ねることで、イワン=スタヴローギンのニヒリズムを脱することができる。
6、再び他者について
・かつてのリベラリズム(第一の主体)は他者の原理を持っていたが、いまやそれは力を持たない(⇒第1章の1)。とはいえ、コミュニタリアニズム(ナショナリズム、第二の主体)とリバタリアニズム(グローバリズム、第三の主体)は、そもそも他者の原理を持たない(前者は自分たち=国家のことを優先して考えるし、後者は自分=個人のことを優先して考えるので)。だからいま、他者への寛容を支える哲学の原理は、家族的類似あるいは誤配くらいしか残っていない。つまり、不能の主体としての私たちが、他者を子どものように扱うべきなのではないか。