アイドルと初めて握手したのは、意外にも℃-uteだった。友達に言われるがままにライブに行き、会場についてからライブの後に握手することを知った。℃-uteについてまだほとんどなにも知らず、矢島舞美さんしか認識できていなかった当時の私は、なぜだかよくわからないがひたすら申し訳なさそうに頭を下げながら、するすると握手の列が流れていくに身を任せることしかできなかった。
あれからしばらくの時が経ち、メンバー全員の顔と名前をすっかり覚え、その間にライブにも再び行った。矢島舞美さんが天然であることを知り、鈴木愛理さんの滑舌が悪いことを知った。それ以外にもいろいろ。
今ではあの握手のことを後悔している。もっとちゃんと予習して会話のひとつでもしておきたかった。ましてや、あの握手は人生で2回しかしていない握手のうちの1回だったのだから。
℃-uteに対する思い入れといえば、精一杯大げさに書いてもこれくらいのものだ。強すぎるわけでも、弱すぎるわけでもない。だから正直解散の発表に動じることはなかった。しかしそれには私の思い入れが中途半端であること以外にも理由がある。申し訳ないけど℃-uteが今後さらなる飛躍を遂げるということは、正直イメージできなかった(裏を返せば安定していたということだが)。だから、解散と聞いても当然の判断としか思えなかった。
思えば℃-uteは、常日頃から「もっと売れていてもいい」と言われ続けてきた。もちろん世の中に無数に存在するアイドルの中では、どう考えても売れている方なのだが、このことはずっと言われていた。しかし、そもそもなぜこんな言い方がされるのだろうか。それは実力と人気が釣り合っていないと考える人が一定数いるからだろう。
確かに、℃-uteには何でもそろっている。ルックス、ダンス、歌唱力、メンバーの個性等々。でも、それの何が面白いのだろう*1。私たちは、BiSがボロボロになりながらも横浜アリーナまでたどり着いたという事実をもっと真剣に受け止めて考えるべきではないのか*2。
なぜだか説教じみてきてしまった。読むのをやめかけている人はもう少しお付き合いいただきたい。まだ遺産について何も言っていない。ただ、その前に言っておくが、℃-uteあるいはハロプロ全体に私がどうしても感じてしまう閉塞感の一因は、どう考えても一部のハロヲタにある。特に、ハロプロはほかのアイドルとは違ってレベルが高いとかいったつまらない選民意識をむき出しにしているような人々に*3。選民意識を持つのはさぞ心地の良いことだろうが、その心地よさの代償として失っているものの多さにも敏感になったほうがいいのではないか。そして当然のことだけれども、自分が好きなら単純に好きとだけ言っておけばいいはずだ(もちろんこうしたハロヲタもたくさんいる)。
で、℃-uteの遺産だが、これはおそらく彼女たち自身のこれまでの活動以上に大きなものだと思う。というのも、彼女たちにあこがれてアイドルになった人は多いからだ。本当にアイドルでハロプロが好きとか℃-uteが好きとか公言する人は多い。アイドルというジャンルに対する愛や理解を持った人がアイドルになるというのは喜ばしいことだ。そうした愛や理解があったほうが、新たな試みが生じてきやすいことは言うまでもない。
℃-uteは近いうちに解散する。各メンバーがそれぞれ個人で活動していくにしても。しかし、私たちの目の前には彼女たちが残した莫大な遺産が散らばっている。この遺産を今後どのように生かしていくべきなのか。その責任の一端は、当然私たちも担っていかなければならないはずである。
*1:いや、十分面白いんですよ。でも、パラダイムを変えるほどではないということです。当然、この要求は不当なほどに高い水準のものであるわけですが、それは℃-uteがこの要求をするに足る存在だと考えているからでもあります。言い訳じみていますが。
*2:メンバーの個性はさておき、BiSが圧倒的なルックス、歌唱力、ダンススキルを備えていたとは当然言えません。
*3:つまり、選民意識が生み出す排他性ゆえに、ファン層の広がりが妨げられているのではないかということです。もしかしたら、それほど選民意識の悪影響は無いのかもしれませんが、それにしても選民意識自体に疑問を感じます。むろんこのことはハロヲタだけに当てはまるわけではないですが。