Especiaの第2章がスタートして少したったので、自分なりの感想を書き留めておこうと思います。あ、もうESPECIAなのか。
で、今のところこの新体制のやり方にはいろんな意見があるようですが、自分にとって一番気になるのはメンバーがどう思っているのかを全く知ることができないということです。といっても、もうメンバーと握手できないのが嫌だとか言いたいのではありません。そもそも握手したことがありません。そんな勇気もありません。
では、どうして気になるのかと言えば、いわゆる第1章からの物語の連続性が全く感じられないからです。脱退したメンバーのことに触れないだけならまだしも、そもそも現在のメンバーの声が全く聴こえてこない。第2章のスタートに際してどんな気持ちなのかといったような声がです。新メンバーに至っては名前以外ほとんど何にもわかりません。
こうしたことをどうとらえるべきでしょうか。個人的にはですが、一種の解放感のようなものを覚えます。アイドルはこんなにも物語から自由になれるのか。そもそも私たちの知らない間に、彼女たちはアイドルではなくなっていたようですが。
メンバーの脱退(それも三人も)。そこからの上京。新メンバーの加入。物語を読み込もうとすればいくらでも読み込めそうな状況です。しかし、そんな物語への欲望を嘲笑うかのように、ESPECIAの運営は、物語が生み出されうるような情報は一切流さず、最低限の情報をただ機械的に発信するのみです。
今や様々な手段を用いて、アイドルの「日常」や「本音」を窺い知ることができる世の中です。そうした情報が多ければ多いほど、物語を読み込んでそこに感情移入していく余地は大きくなります。そしてそうした物語への移入は、アイドルの魅力のひとつとされています。
ここで疑問が生じます。これはアイドル固有の魅力なのか。少なくとも物語性はあまりに強調され過ぎてはいないか。その絶大な効用の裏に隠れて、物語を強調することから生じる息苦しさが見過ごされてはいないか。
Perfumeのぐるんぐるんツアー最終日。代々木第一体育館。観客からの「サプライズ」として、一斉に席に用意されていたボードを掲げるという企画に私も参加していました。なぜだかそのとき少し苛立っていました。帰りの新幹線の時間が迫っていたこともあったとは思います。でも、それだけではなかった。感動という名の同調圧力への違和感。それ以上に、Perfumeのライブの魅力はこんなところにあるのかという疑問。今でも心に引っ掛かっているままです。
全てのアイドルがESPECIAみたいになれば、アイドルシーンは味気ないものになるでしょう。しかし、こういうやり方をするグループはあっていい。そして、このESPECIAの試みは、かつてBiSが過剰に、意図的にどこまでが本当かわからないような「裏側」を見せることで物語性を攪乱した試みの、別のバージョンであるのかもしれません。さらに最後にどうしても付け加えておきたいのですが、第1章からの切断による物語性の攪乱は、第1章が素晴らしいものであったからこそ、効果を発揮するものなのです。