大きく分けて、二つの話が書かれてあった。まずは「アイドルの枠」問題に絡めながら、アイドルそのものについて(第2節)。そして二つ目に、アイドルと批評の関係について(第3節)。
一つ目については、さらに①「アイドルとは何か」②「アイドルに何ができるか」③「『アイドルはこういうものである』と世間は思っている」④「「『アイドルはこういうものである』と世間は思っている」と運営やメディアが考え戦略を打つ」の四つに分かれていた。まずこの四つを順番に見ていく。
①については、まず「A.好意の普遍性」が挙げられている。アイドルは多数の人に好かれる「みんなのもの」でなければならない。これは・ちゃんが都市=みんなのものであることと関係しているのだろう。また、特定少数の人間に好かれる=ガチ恋のモードから応援のしかたをずらそうとする戦略とも関わるはずだ。
次に「B.「かわいい」の優越性」。これは、普通はかわいいとされないようなどんな要素でも、アイドルであればかわいいと言えてしまうということ。もちろんかわいいと思えば、Aの好意にもつながる。
そして、「C.「憧憬の対象」性」。オタクが振りコピしちゃうことからもわかるように、アイドルは「それになりたい」という気持ちを引き起こす。ここはドッツのコンセプトを考える上でめっちゃ重要だと思われるが、突っ込んだ話はまたの機会に。
とはいえ、ここまで確認してきたアイドルの定義はアイドルの枠とはまた別物。という訳で話は②「アイドルに何ができるか」に進む。
②についても二つに分かれている。まず「②―1 大体のアイドルがやっている、中核的なこと」と「②―2 いわゆるサブカル系や楽曲派をはじめとし、差異化戦略の結果生まれて来た、アイドルの多様性」。
この二つの要素に対し、ドッツ運営はどんな態度を取っているか。まず②―1にかんして、①と結び付く側面(「生歌で、きちんと振りを入れて一生懸命踊る」など)についてはきちんとやる。他方で、よくないと思うこと(アイドルがリプ返するなど)はやらない。
次に②―2にかんして。こうした多様性を踏まえて色んな新しいことをやる。でもそれはアイドルの枠の拡張ではない。そんな枠には興味ない。「アイドルでもできる」から「アイドルだからできる」へ。アイドルを超えていくのではなく、アイドルがアイドルのままでよりアイドルらしくなって、まだ見ぬところへと超えていく、とでも言えばいいだろうか。
③と④はまとめて論じられている。まず③については、やはり依然としてアイドルは様々なレッテルを貼られている。しかし同時に近年、そうしたステレオタイプを逆手にとる形で、「アイドルの枠を超えたもの」としてアイドルを提示する戦略が多く使われた。とはいえ、この戦略も食傷気味で先がないのではないか。
ここで、「アイドルの枠を超えたもの」として「踏み出さない」ことが価値を持つ。それは、アーティスト/アイドルの位階構造への反発から反動的にアイドルにこだわることではない。それは、そもそもアイドルがアイドルのままで、他の領域でも評価されうる本格性を持ってることを認めることだ。ここにこそアイドルの未来があるのではないか。
第3節では、アイドルと批評の話題へ。まずアイドル界隈の閉鎖性とは、つまるところ批評がその内部ですら欠けていることにあると指摘される。そして、「本格的な音楽」が好きな人を楽曲派アイドルが巻き込んだように、「本格的な批評」が好きな人を巻き込む戦略もあっていい、と言われる。そうでなければ文化の成熟、存続もない、と。ここまでは批評界隈へと訴求するという話だ。
逆にアイドル界隈内部に対しては、動物的にMIXを打つように、動物的に理性や言語を尽くしてアイドルを語るという衝動がもっと認められてもいいのではないか、という提案がなされる。
この最後の提案にはコンセプトからはまったオタクとしては勇気付けられた。しかも、・ちゃんたちが読むのに合わせて、たくさんの人たちがまさに今日、東浩紀の『観光客の哲学』を購入するのを目の当たりにした直後だっただけになおさらだ。・ちゃんを介してアイドル界隈に東の批評が「誤配」されていっている。
つまり、アイドルについての語りが批評界隈に誤配されるとともに、批評がアイドル界隈へと誤配されるというビションがここでは示されている。こうした誤配の運動に、ドッツを、・ちゃんを愛する者として、是非とも積極的に介入していきたい。