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・ちゃんの課題図書を読む①

東浩紀『ゲンロン0――観光客の哲学』

                                       

 

第1部 観光客の哲学

第1章 観光

1、観光客の哲学は他者の哲学である

・リベラル知識人(あるいはその背景にある欧米の思想)は、つまるところ「他者を大事にしろ」と言ってきたが、人々は世界中で「他者とつきあうのは疲れた」と主張し始めた。

・こうした状況の中で、正面から「他者を大事にしろ」と唱えるのではなく、ただ自分の満足を満たすためだけの観光という「裏口」から「他者を大事にしろ」という命題のなかに引きずり込むことが観光客の哲学の目標。

☆みんな自分(たち)のことで精一杯なのに、賢そうな奴らに「他者を大事にしろ」とか言われてもなかなか受け入れられない。だから、自分のことだけ考えてやる行動をしてるうちに他者への思いやりみたいなものが生まれるような仕組みを考える必要があって、それこそが観光なのではないか。

 

2、観光の誕生とその研究状況

・観光は、近代に入って大衆社会や消費社会が誕生したことと結びついている。

⇒19世紀に入ると、産業革命が進んで労働者たちが力を持つようになり、彼らの生活様式が余暇を含むものに変わったところから観光が生まれた。

・観光は、「つまらない」「取るに足らない」テーマだと思われてきたので、観光の本質について考えられることは少なかった。

・ジョン・アーリーとヨーナス・ラースンによる『観光のまなざし』という著作によって、こうした状況が変わる兆しが現れたが、彼らは現在のグローバル化する観光に対しては否定的な見解を表明している。

☆昔から観光は、学問の世界においてあまり真剣に考えられてこなかったし、今でも資本主義と結びついているということで批判されている。でも日本にたくさんの外国人観光客が訪れるようになっているみたいに、21世紀の世界はますます観光客で覆われてきている。だから観光を批判するだけじゃなくてそのいいところも考えていく必要があるのではないだろうか。

 

3、観光客の哲学を考えることの3つの狙い

グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作ること

(1) 観光はグローバリズム=国境の横断と切り離せない。

(2) 世界はグローバル化によって急速に均質になりつつある(=フラット化)。

(3) 観光客の増加は世界のフラット化と切り離せない。

⇒観光客の哲学的な意味を問うことは、グローバル化がもたらすフラット化の哲学的意味を考えることに等しい。

②人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示すること

・観光とは、行く必要ない場所に、気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のない人に会うという行為である。

・観光客にとっては、訪問先の全ての事物が商品であり展示物であり、偶然のまなざしの対象となる。

③「まじめ」と「ふまじめ」の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げること

・学者は基本的にまじめなことしか考えないが、観光は「ふまじめ」なものである。

⇒学者が観光を「まじめな」研究対象にするのは難しい。

・しかし、今こそ「まじめ」と「ふまじめ」の対立を越えねばならない。なぜなら、そうした対立を前提にしていては上手く捉えられないようなこと(例えばテロ)が起きてきているから。

グローバリズム(=世界中が似たようなものになっていくこと)によって、今までの「まじめ」な考え方だけでは、よく理解できないようなことがたくさん起き始めている。だから観光という不必要で、「まじめ」とは程遠いようなことから社会を考えることで、どんどん変化していっている目の前の現実をうまく理解するための考え方を作り出すことができるのではないか。

 

付論 二次創作(読み飛ばし可)

1、二次創作と観光

①『動物化するポストモダン』との関係(44~47頁)

・オタクの「二次創作」は、「原作」から離れて自分の楽しみのためだけに別の物語を作り上げるという「ふまじめ」な創作活動であり、これはまさに「観光」的な性格を持つ。

⇒両者に共通するのは無責任さである。観光客は訪れた先の住民に対して責任を負わないし、二次創作者も原作に責任を負わない。そして、こういう無責任な行いは嫌われることがある(例:原作厨)。

・とはいえ、二次創作によってアニメが、観光によって地方の経済が成り立っていることもまた確か。

⇒現代の社会や文化について考えるには、二次創作するオタクや観光客について考えることが欠かせない。

②『ゲーム的リアリズムの誕生』との関係(47頁~50頁)

オタク文化に限らず、現代社会においてはあらゆる作品が、他の人の評価や自分の評価に対する他の人の評価という「他者の視線」を含んだかたちで消費される。

⇒作品自体が、「それがどのように消費されるのか」(=他者の視線)を前もって踏まえた上で作られていることを考慮して、作品を分析しなければならない(ここまでが『ゲーム的リアリズムの誕生』の議論)。

・以上の議論を観光に当てはめると、ある地域を研究するときに観光客の視線(=他者の視線)による分析が必要だということになる。いまはあらゆる場所が、観光客の視線を前もって踏まえた上で、街並みやコミュニティを作るようになっているのではないか。

ポストモダンという言葉についての補足

ポストモダンとは、再帰的近代の世界のことであり、そこで人々は、自分の行動が他者にはどう見えるのかという他者の視線を常に意識して行動する。

☆この付論は、東自身も言っているように、過去の東の著作を読んできた人向けのものなので、読み飛ばしても議論を理解する支障にはならない。とはいえ、この節では二次創作の話が出てきたりもするので、アニメや漫画に興味がある人は読めば理解が深まるかもしれない。

 

2、『福島第一原発観光地化計画』と『観光客の哲学』

・観光とは、現実の二次創作である。福島の原発にかんして言えば、二次創作とは福島のイメージが地元の実情(原作)を離れて事故の印象のみに覆われてしまうことである(=「フクシマ化」)。そしてこのことは、日本以外の人にとっては当てはまる(日本人がチェルノブイリと聞くと、未だに「放射能で汚染された不毛の土地」などのイメージに囚われているように)。

⇒こうした二次創作=フクシマばかりが流通しているうえ、これからもそれは再生産され続ける(これはポストモダンの世界においては避けられないこと)。だとすれば、二次創作の流通を逆手に取って、それをきっかけとして観光という形で人々を原作=本来の福島へ導くべきではないか。

・以上のような福島の観光地化の提案は失敗したが、そのときからの問題意識はこの『観光客の哲学』でも続いている。

☆『観光客の哲学』は、『福島第一原発観光地化計画』の続編でもある。

 

第2章 政治とその外部

1、ルソーの問い

・ルソーは、「人間は人間が好きではなく、社会など作りたくないにもかかわらず社会を作るのはなぜか」、と問うた。19世紀以降の社会思想はこの謎について考えてこなかったが、東は観光客のあり方にこの謎を解くヒントを見出していく。

 

2、ヴォルテールライプニッツ批判

ライプニッツは、最善説(=この現実に「まちがい」はないという考え方)を唱えた。

・これに対しヴォルテールは、世界は「まちがい」に満ちているとして、ライプニッツを批判した。

・この批判がなされた『カンディード』においては、旅のモチーフが取り入れられているが、東はその旅を「観光」と見なす。

・『カンディード』で描かれる旅=観光には、世界各地の地名が登場するが、それらの地名にまつわる物語は、二次創作的なステレオタイプ(=偏見に基づいた嘘の話)でしかない。

ヴォルテールは、世界旅行(=観光)という思考実験(=想像)を導入することで、世界には常に想像を超えた悲惨な現実(=「まちがい」)があるかもしれないという、その可能性一般を突き付けた。

⇒観光は、想像力の拡張と不可分である。

ヴォルテールの『カンディード』における世界旅行=観光は、間違ったイメージ=二次創作であるが、それによって想像力が拡張される。

 

3、カントの『永遠平和のために』における観光

・カントによる永遠平和の設立のための三条件

①「各国家における市民的体制は共和的でなければならない」

⇒永遠平和の体制に参加する国は、自分たちで自分たちを治める国でなければならない。

②「国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである」

⇒それぞれの国が市民の自由を保障した共和国になり(ここまでが①)、次にそれらの国々が合意の上で上位の国家連合をつくる必要がある。

③「世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されねばならない」

⇒「普遍的な友好をもたらす諸条件」とは、「訪問権」のこと。東はこれを、観光の権利に読み替える。

・①②の条件は、成熟した市民が国家をつくり(①)、成熟した国家が成熟した国際秩序をつくる(②)という歴史観に基づいている。この歴史観を採用すると、未成熟なもの=ならずもの国家を排除せざるを得ないが、それは幽霊のようにテロとして回帰し続ける。

・これに対し③の条件は、個人と「利己心」「商業精神」がきっかけとなる永遠平和への道を示しているのではないか。

・たとえならずもの国家の市民であっても、観光客として世界中を旅しており、そうすることで祖国の体制とは無関係に平和に貢献している。

☆カントは訪問権によって、それぞれの国の体制や国同士の関係とは無関係に、観光客がいろんな国を旅することで、平和を実現していくような道を提示していたのではないか。

 

4、シュミットの「友敵理論」

・シュミットによれば、政治は友と敵の二項対立のうえに成立する。

⇒国家の存続が危ういとき=例外状況においては、政治は国家の存続だけを考えて、超法規的な措置をとることができる。

 

5、ヘーゲルの政治哲学

ヘーゲルは、「人間は人間が好きではなく、社会など作りたくないにもかかわらず社会を作るのはなぜか」というルソーの問いに対して、「人間は国家をつくり、国民になることで、社会をつくりたくなかった未成熟な自分を克服することができるから」と答えた。

⇒ここで、市民社会から国家への移行が、人間の精神的な向上と結び付けて考えられている。

⇒人間が人間であるためにはその所属先である国家が必要ということになり、これを突き詰めるとシュミットの理論に行きつく。

☆4と5のまとめ

【近代思想(ヘーゲル→シュミット)】

「家族→市民社会→国家(友敵の対立のレベル)」という順で人間は成熟する。国家に属することで初めて人間は人間になる。⇒こうした考え方は観光客の哲学の障害となる。

【観光客の哲学】

ヘーゲルやシュミットに従えば、私的な動機で国境を越える観光客は、人間未満の未熟な存在(=政治の外部)ということになる。だから、観光客の哲学は、彼らとは別の成熟の仕組みを考えなければならない。

 

6、コジェーヴの「動物」

コジェーヴは、シュミットと同じように、国家と国家の理念を賭けた闘争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代(=グローバリズムの時代)における人間の消失を問題にしている。

グローバリズムが導く人間こそが「動物」であり、必ず友と敵がいた人間とは違って、動物には友も敵もいない。

⇒国家を離れ、個人の関心だけによって行動する観光客は、動物であると言える。

 

7、アーレントの『人間の条件』、および消費社会批判

アーレントによれば、人間は、名前を明らかにして、他者と議論し、公共の意識を抱くとき(=「活動」をするとき)、はじめて人間であることができる。しかし匿名で、他者とのの議論なく、生命力を自分一人の賃金と交換しているとき(=「労働」をしているとき)には、人間であることができない。

・消費社会の到来=「人間ではないもの」の到来に対して、シュミットは「人間=友と敵をつくり政治を行う者」と答え、コジェーヴは「人間=他者の承認を賭けて闘争する者」と答え、アーレントは「人間=議論をし公共をつくる者」と答えた。

⇒三人とも「人間ではないもの」を拒否した。

・しかし、グローバリズムが進む二一世紀で、こうした「人間ではないもの」=観光客を拒否することはもはやできない。

☆二〇世紀の人文思想(シュミット、コジェーヴアーレントの思想)は、「人間ではないもの」=観光客を、政治の外部に排除して人間を定義してきたが、観光客の哲学は、観光客から立ち上がる人間の定義を考えていく。

 

第3章 二層構造

1、上半身と下半身の分裂

・基本的な構図は以下の通り。

上半身…ネーション、政治、合理的な思考、ナショナリズム

下半身…市民社会、経済、非合理的な欲望、グローバリズム

ナショナリズムの時代においては、上半身と下半身が合わさり、ひとつのネーションが構成されていた。しかし、二一世紀では政治の議論はネーション単位で行われる(⇒ナショナリズム)が、経済において市民の欲望は国境を越えてつながり合っている(⇒グローバリズム)。現代は、上半身と下半身の二層構造の時代である。

 

2、リバタリアニズムリバタリアニズム

・カントやヘーゲル…「個人→市民社会→国家→市民社会」という単線的な物語を提示した。

※こうした物語はすでに有効ではなく、破綻している。

 ↓ 継承

リベラリズム…カントやヘーゲルの後継者として、上記の物語をまだ信じている。

 ↓ 批判

・(1)リバタリアニズム…個人の自由を尊重し、国家の介入を出来るだけ避ける。

 ⇒リバタリアニズムにおける国家は、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられている。

 (2)コミュニタリアニズム…普遍的な正義を信じず、共同体を重視する。

リバタリアニズムグローバリズム(下半身)の思想的な表現で、コミュニタリアニズムナショナリズム(上半身)の思想的な表現である。

 

3、ネグリとハートの「帝国」

・二つの体制

①「国民国家(ネーション)の体制」…ナショナリズムの層(上半身)に相当する。規律権力(=人間を人間として扱う権力)が優位。

②「帝国の体制」…グローバリズムの層(下半身)に相当する。生権力(=人間を動物として扱う権力が優位。

ネグリとハートは、「帝国」という言葉で、動物=グローバリズムの層こそがつくりだす政治について考えようとしている。これが東とネグリらの共通点。

⇒東は①と②の共存する状態(=二層構造)を考えているが、ネグリらは①から②への移行を考えている。これが両者の違い。

 

4、マルチチュード批判

マルチチュードとは要は反体制運動や市民運動のことだが、これはグローバルに広がった資本主義を拒否しない。国境を越えたネットワーク状のゲリラ的連帯。

・このマルチチュードは帝国を批判するが、それは帝国に依存して生まれる。つまり、帝国が帝国の敵を自ら生み出し、帝国内で闘いあうという構図であり、これが欠点①。

ネグリたちのマルチチュードは、「連帯が存在しないことによって連帯が存在する」という否定神学的な存在でしかない(⇒郵便的マルチチュードへ)。これが欠点②。

 

第4章 郵便的マルチチュード

1、観光客=郵便的マルチチュードの連帯

・観光客とは、帝国の体制(下半身)と国民国家の体制(上半身)のあいだを往復し、私的な生の実感(特殊)を私的なまま公的な政治(普遍)につなげる存在の名称である。

・観光客は、マルチチュードに近いが、東はその欠点①②を共に克服し、郵便的マルチチュードとしての観光客の概念をつくることを目指す。

・郵便とは、現実世界の様々な失敗=誤配の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉のこと。

・郵便的マルチチュードを考えることで、いつも連帯し損なうことで後から生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そうした錯覚の集まりがつくる連帯について考えたい。

 

2・3、数学的モデルと郵便的マルチチュード

・ネットワーク理論の三つの特徴

①「大きなクラスター係数」…仲間が多いこと。

②「小さな平均距離」…世界が狭いこと。

⇒これら二つを両立させているのが人間社会であり、これは「スモールワールドネットワーク」と呼ばれる(=人間社会のモデル化)。

⇒これは、人間の社会において、見知らぬ他者の侵入(つなぎかえ)は、他者の絶対的な排除(確率=0)でも、他者への完全な開放性(確率=1)でもなく、そのあいだ(確率=0<x<1)の状態で生じている、ということを意味する。

③「スケールフリー」…規模に関わらず、同じ形の不平等な分布が現れること。

⇒ここから、富の偏りは、ネットワークの参加者それぞれの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだされる、ということが帰結する。

 

4、スモールワールドとスケールフリー

・スモールワールド性とスケールフリー性は、ひとつの関係のふたつの表現である。

⇒スモールワールドの秩序…国民国家(上半身)の規律権力に対応する。

 スケールフリーの秩序…帝国(下半身)の生権力に対応する。

ヘーゲルの考え方は、まだスモールワールドの秩序しか見えていなかった時代の社会思想でるが、今や技術の発展によって、スケールフリーの秩序が見えるようになった。

⇒観光客=郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドにしていた誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。

 

5、優先的選択への抵抗

・現代になって社会が複雑になると、つなぎかえが偶然に委ねられることがなくなる(誤配が偶然性を失う)。ここで生じる新たなつなぎかえ(偶然を排除したつなぎかえ)は、優先的選択と呼ばれる。

・スモールワールドの時代…偶然的な誤配が社会を社会たらしめる(関係に方向性がない)。

国民国家の体制=上半身)

 ↓ 資本主義の誕生

 優先的選択の時代…誤配の偶然性が失われて、一方的な関係が生まれ、不平等をもたらす。

(帝国の体制=下半身)

※この二つは共存していることに注意。

グローバリズム(下半身)への対抗の新たな場所は、帝国の内部でも外部でもなく、そのあいだ、つまりスモールワールド(上半身)とスケールフリー(下半身)を同時に生成する誤配の空間そのものに位置づけることができる。

⇒誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと。再誤配の戦略。

☆第4章まとめ

・上半身…国民国家、規律権力、スモールワールドの秩序、ナショナリズム

下半身…帝国、生権力、スケールフリーの秩序、グローバリズム

⇒二一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家のあいだ=誤配の空間から生じる。つまり、帝国の体制に偶然を導き入れ、優先的選択を誤配へと差し戻すこと。


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