まず初めに断っておくが、タイトルに書評と書いてあるからといって、この本の内容の紹介をすることはできない。する気もない。そうではなく、評者の問題意識の範囲内で特に興味深かった点を紹介し、そこから少しだけ議論を展開することにしたい。
では、どのような問題意識のもとにこの本を読んだのか。当然この本は、単に読み物として、渡辺淳之介という人物の伝記のようなものとしても楽しむことができる。彼の特異な考え方や、逆境を乗り越えててきた姿勢から影響を受けることもあるかもしれない。
しかし、評者は一貫して、この本を「BiSとは何か、そしてさらにはアイドルとは何か」という視点からのみ読んだ。それゆえ、渡辺淳之介という人そのものに興味がある方は、こんなブログを読むよりも現物を直ちに手に取ることをお勧めする。
ともあれ、以上のような観点からこの本を読むことで、改めてBiSの重要性を認識することができた。なぜ重要なのか。このことを以下で明らかにしていきたい。
まずは、「すべてがパクリの人生ですよ、僕はオリジナルだと思ってないから」という渡辺の発言に注目したい。これは渡辺が自分自身を評して述べている言葉であるが、ここにBiSの特徴がよく表れているように思える。なぜか。少し遠回りをさせていただきたい。
以前から評者は、BiSのことをマルセル・デュシャンの「泉」という作品に喩えてきた。この作品は、既製品の便器に偽の署名をして、デュシャンが芸術作品として美術館に送り付けたものである(現物は残っていないらしい)。なんて馬鹿なことを、と思われるかもしれないが、現代アートの入門書には必ず載っているようなかなり有名な作品である。
これの何が評価されたのか。当然便器そのものに大した価値はない。だとすれば、評価されたのは、今までは誰も芸術作品として見なさなかった便器を、芸術作品として提示したこと(さらにそれによって「芸術とは何か」と問いかけたこと)に他ならない。
BiSの話に戻ろう。「泉」をBiS当てはめてみるなら、(失礼ながら)BiSのメンバーは既製品であり、このメンバーを世の中に対して提示するそのやり方こそが新しかった、ということになるだろう。実際、こうした考えを裏付けるような渡辺の発言が、ギュウゾウとの対談の中に見受けられる。
客観的に言えば、BiSは僕の演出と松隈さんの楽曲があってのものなんですよ。元メンバーは、そこに乗っかれる子たちだったんですよ。〔中略〕何者でもないからがんばったのがBiS。
ここでは、メンバーは「何者でもな」く、まさに既製品のような、オリジナルでないものとして捉えられている(まさに「すべてがパクリ」!)。では何がオリジナルだったかといえば、「僕の演出」、すなわち、提示の仕方だったわけだ。
ここまでで、一応「BiSとは何か」については確認できた。しかし、なぜBiSが重要なのかはまだ明らかではない。ここで、再び寄り道することをお許しいただきたい。
デュシャンの「泉」を踏まえて、アートを定義すればどうなるか。それは、「アートとはアートである」ということになるだろう。便器という既製品でも、アートたりえたのだから。つまり、芸術作品であると提示することこそが、芸術作品の要件なのだ。
同様に、BiS以降のアイドルの定義は、「アイドルとはアイドルである」となるだろう。アイドルであると名乗ることこそが、アイドルの要件となる。実際、プールイはかつて、BiSは「『アイドル』だと言い張るグループ」であると述べていた*1。
BiS以降、アイドルと名乗ることがアイドルの要件でありうる。だとすれば、アイドルはほとんど何だって出来るはずだ。ただ、このポテンシャルが完全発揮されているとは思えない。ポストAKBのアイドル界を考えていくうえで、これは一つの指針たりうるのではないか。
また、先ほどBiSのメンバーを既製品になぞらえたが、当然モノと人では違いがある。たとえアイドルの運営のオリジナリティばかりが際立っていても、いやそれが際立てば際立つほど、逆にメンバーのパーソナリティーは一層輝きを放つだろう(モノは語らないが、人間は語りうる)。
以上で、もはや書評でもなんでもない書評を終わりにしたい。良い書物とは、得てして人を思考するように駆り立てる。この書評はその駆り立てられた思考の一例ではあるだろう。だからこそ、アイドルに興味を持つすべての人がこの本を手に取り、自らの思考を開始させることを願ってやまない。