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フィロソフィーのダンス、あるいは哲学に向けた舞踏 (The Dance for Philosophy)

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 カントは、『純粋理性批判』においてアンチノミーについて論じた。これは二つの相反する命題がともに成り立つあるいは成り立たないということを示し、そうした問題そのものが理性が扱うべき事柄ではないということを示すためのものであった。

 例えば、「世界には始まりがある」という命題と「世界には始まりがない」という命題。この二つは共に自己矛盾に陥る。「世界には始まりがあるのか否か」という形而上学的問題は、理性が扱う問題ではなく信仰の問題だ。こうした区別を行うことこそ、カントが「批判」と呼んだものであった。

  翻って、フィロソフィーのダンスは「すききらいアンチノミー」を歌い上げる。カントの議論に重ね合わせれば、「すききらい」はまさに理性ではなく信仰の問題ということになる。

 確かにそうではないか。私たちが、アイドルを「すき」だと言うとき、そこには信仰とでも形容するしかないようなものがあるのではないか。
 そうではない、私はこのアイドルの楽曲がいいから「すき」なのだ。信仰ではない。そんな声が聞こえてきそうだ。 
 では、なぜアイドルの楽曲がいいかといってあなたはそのアイドルが「すき」なのですか。いや、別に楽曲だけじゃなくてメンバーの人柄とか…。では、なぜメンバーの人柄がいいからといってそのアイドルが「すき」なのですか。いや、なぜって言われても…。
 こうして私たちは自ずと「好きだから好き」としか言えないような地点へと至る。これを信仰と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 こうしたパラドックス的状況を体感するには、まずはアイドルに(いろんな意味で)踊らされている必要があるだろう。そして、私たちがアイドルによって踊らされているとき、そこには必ず信仰と呼びたくなるようなものが含まれている。
 まずはこうした踊りに身を任せなければならない。「正気じゃいられないくらい踊ろうよ手遅れになったっていい」。
 しかし、こうした踊りからさらに一歩踏み出さなければならない(し、ここからしか真に踏み出すことはできない)。こうすることによってのみ、私たちはアイドルについての思考を、哲学を開始することができる。すなわち、哲学に向けた舞踏。

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