まずはナポリタンの話をする。アイドルの話になるのは後半以降だが、ナポリタンの話抜きには、アイドルの話へは移れない。しばらくお付きあいいただきたい。
こんな風に書くと、まるでナポリタンの話がつまらないかのようだがそうではない。三浦哲哉の「ナポリタンの理念とサスペンス」(『小説トリッパー2016年夏号』に掲載)は、その題が暗示している通りに「サスペンスフルな批評」だった。以下では、この批評をパラフレーズしながら、「ナポリタンの理念」とは何なのかを見ていく。
そもそもナポリタンは、日本の洋食文化のなかで独自進化を遂げたもの。イタリアにナポリタンなるパスタ料理は存在しない。そして、このナポリタンの復権がある時期に生じた。なぜか。1980年代後半以降、イタリアンの食材および料理法の普及によって、日本人は本場イタリアの味になじみ、それを美味しいと感じる習慣を獲得した。これにより、以前からあったガラパゴス的なナポリタンが、逆に新しいものとして受容されるようになった。これがナポリタン復権の理由とされる。
しかし、こうしたナポリタン評価は、どこか釈然としない。なぜか。「相対評価」だからだ。ナポリタンを「外在的な関係のなかで捉えている」からだ。これでは、「パスタとの距離ゆえに、ナポリタンを評価する」ということにすぎない。
ではどうすればいいのか。ここで「ナポリタンの理念」という言葉が登場する。これは、「ナポリタンの自分自身における差異」ともいわれている。ここではおそらくドゥルーズが意識されている。というのも、「理念」はドゥルーズの『差異と反復』に頻出するカント由来の語であり、「自分自身における差異」はドゥルーズのベルクソン解釈において頻出する言葉だからだ。
しかし、これでは何の説明にもなってない。幸いなことに筆者自身が分かりやすく説明してくれている。曰く、理念とは「それを出発点として個別具体的な現勢化がさまざまにありうる生きた設計図」である。
注意しなければならないのは、理念は前もって固定されたものではないということだ。だから「生きた設計図」と言われている。それゆえ、現勢化(=理念が現実化すること)は創造的でありうる。こうした議論を経て、最後には、以上のような「ナポリタンの理念」を踏まえたナポリタンの作り方の実践例が二つ示され、稿は閉じられる。
以上でナポリタンの話は終わり。ナポリタンという身近なものからここまで思考を巡らせていく筆者の力に驚嘆しつつ、いよいよアイドルの話へと移っていこう。
このナポリタン論を読んでいたとき、私は途中からこれをアイドル論としてしか読めなくなってしまっていた。なぜそんなことになってしまったのか。
例えば、相対評価の話。これこそアイドルについての語りにおいて最も問題となるものではないだろうか。「アイドルは実力がない」とかいったつまらない語りばかりではなく、「アイドルを越えた」などという語っている当人はほめているつもりになっている語りでさえ、結局は相対評価に過ぎない。
何に対して相対的なのか。おおざっぱに言えば、「アーティスト」に対してであろう。ここでの「アーティスト」とは、しかるべき「実力」を具えており、その「実力」によって自らの思想を表現する人物ということにでもなろう。要するに、近代主義だ。
現在アイドルを巡る語りにおいて、こうした相対評価から逃れることができている、あるいは自覚的であるものは、ほんの一部に過ぎないと言えるだろう*1。
ではどうすればいいのか。アイドルとは「所詮は」アイドルなのだからと半ば居直ってアイドルを楽しむという道もあるだろう。しかし、「所詮は」などと言っているときにはすでに「アーティスト」との比較が前提となっているのだから、これは単純な相対評価よりもたちが悪いとまで言えるかもしれない。
ともあれ、アイドルに対するくだらない偏見はさておき、相対的なアイドルに対する(肯定的な)評価でもなく、からといってあきらめてアイドルなんて「所詮は」などと居直るのでもない、新たな道が探究されなければならない*2。
この新たな道を指し示すものこそが、「アイドルの理念」だろう。先ほどの「ナポリタンの理念」の定義に従えば、「アイドルの理念」とは、「アイドルの自己自身における差異」ということになる。この理念の定義は、このブログで再三主張してきたアイドルの定義、すなわち「アイドルとはアイドルである」という定義と重なるように思われる。なぜなら、アイドルを名乗ることだけがアイドルの要件である以上、アイドルは様々に変化していくことができるからだ。アイドルというジャンルは、常にそれまでとは異なるアイドルが生まれる潜勢力を有しているのだ。
こうした理念を踏まえた上で、アイドルに内在的な視点からアイドルを語ること。万が一「アイドル批評」などというものが存在しえるとすれば、それはこうしたものでしかありえないのではないだろうか。
とはいえ、小難しい言葉を使うばかりで大したことは何も言っていないと思われるかもしれない。確かにそうだ。ここまでで述べてきたことは、ありていに言えば、「アイドルには無限の可能性があるよ」くらいのことでしかない。そんなことわかりきっていると言われるかもしれない。しかし現実はどうか。個人的には、アイドルの潜勢力が楽曲において発揮されることが多いという現状に、少しだけ危機感を感じている。ここまで述べてきたアイドルの理念を踏まえてアイドルの未来を構想するならば、そうした理念が現勢化することは、別に楽曲に限られた話ではないということは明らかだ。
当然こうした理念は、無内容に等しい。しかし、だからこそ、それこそ無限の力をそこから引き出しうるものだ。そしてこのことは逆に、アイドルについて考える者の考えるべきことが増えるということも意味しているだろう。当然これは骨の折れる煩わしいことではある。別に今が楽しけりゃいいじゃないかという気もする。自分でもわかっている。しかし、「自分自身における差異」による創造性を失ってしまえば、と言うよりむしろそれを活かしきれずに無為に時を過ごしてしまえば、そのジャンルに未来はあるだろうか。そうして消え去っていった、あるいは消え去ろうとしている文化は数多あるのではないか。もしアイドルという文化がいつか消滅するならば、アイドルの理念が十分に発揮されて、もはや今のアイドルとは似ても似つかないものになった場合しか私は認めたくない。これはアイドルに魅せられた者の一人としての意地でもある。
*1:こうした事態の要因の一つとして、アイドルを語る際にどうしても音楽評論の手法や言葉が用いられることが考えられるのではないか。というのも、音楽評論とは、まさに「アーティスト」を評論するのものである以上、その方法に従ってアイドルを評論すれば、いくら本人がアイドルを評価しようとしても、相対評価にならざるを得ないからだ。例えば、「アーティスト」に関しては、自らの思想を音楽で表現するといった主体性を重んじる傾向があるが、これを前提にすれば、通俗的なイメージ通りに主体性がなく大人の操り人形に過ぎないアイドルか、アイドルにもかかわらず主体性があるアイドルという語り方しかできなくなる。しかしこの時、そもそも主体性があることがなぜそんなに重要なのかということが問われることは無い(それは前提なのだから)。ちなみに後者のような語り方は、例えばでんぱ組についての語りにおいて一時期顕著であったように思われる。
*2:この新たな道を探ることによってしか、アイドルに対する偏見も結局は消えないのではないか。